STEM教育の記事を書きがてら、某記事でモンテッソーリ教育について触れている記事がありました。

最近、そこかしこでモンテッソーリ教育がすごい、モンテッソーリ以外アリエナイみたいな風潮になっているので(なっていない)、私もモンテッソーリを唱えることで、教育の第一人者ヅラできるようになりたいと考えました。

モンテッソーリ言ってれば、地元の小学校とかで講演依頼とかくるわけでしょ? 「人気ブロガーのぶちくまさんが、未来ある小学生にアフィリエイトを指導!」みたいな見出しで地元欄にも載れるわけだ。
というわけで、下心を隠さない感じで、このまま記事も書いてみようと思います。
モンテッソーリ教育を下調べなしで書いてみる
とりあえず、自分の考えるモンテッソーリ教育についてまとめます。
モンテッソーリ教育とは
モンテッソーリ教育とは、起源を1600年代のフランスにもつ、貴族階級での教育思念のこと。
ジャン・ド・モンテッソーリ侯爵は長子ではあるが不出来なフアン・モンテッソーリに爵位を継承すべきか悩み、次子アランには領地を、義理の息子であるアンリを要職につけることで実質として領主権を渡し、権力の分散を図った。これを後の三権分立の基礎とする解釈も一部ではみられているが、厳密には異なる。
ジャンはカトリックを信仰していたが、三十年戦争でフランス王国がプロテスタントを支持すると立場を危うくし、出兵を余儀なくされる。ジャン自身はデンマーク駐留中に疫病で命を落とした。ジャンが没すると、不出来と言われていたフアンが実態のない爵位を継承した。戦争で揺れる領土内の経済の安定を目指したいアンリと、フランス国政への影響力を高めるべく戦争での武勲を得ることを考えたアンリは対立するようになる。
領地内政に不穏な空気が流れる中、権力に縛られないフアンは数人の家臣とともに放蕩の旅で各国を回っていた。平民にもよく馴染み、奢らぬ態度をとるフアンは人心を掴むことに長けた。二分するモンテッソーリの話を聞き、フアンは旅から戻ることを決意する。領地に戻るとアラン、アンリに協力を請い、両者を立てながらモンテッソーリの領地を治めることに成功し、モンテッソーリは再興を果たした。
フアンは自身の経験から、教育に親の介入は不要であるとし、子の成長に合わせて必要な援助のみを行うべきだと考えた。この教育方針は、フランス革命前という時代、君主主権の中では流行らず、モンテッソーリの一部で語られる程度であったが、現代において一部教育者がそれらしい逸話を持ち出すためにモンテッソーリの名が語られるようになった。
現代では、「子供は自由に育てるべきだ」ということを、もっともらしく伝える時に「モンテッソーリ教育」と呼ぶ。
モンテッソーリの流儀
教育方針としてモンテッソーリを語る場合、注意すべき点は以下の3点である。
- なるべく多くの外国語を使う
- モンテッソーリというときは、少し気取る
- 無知であることを相手に悟られない
外国語に紛れ込ませると効果が上がる
そもそも、モンテッソーリは実態のない教育方針である。これに格調高い雰囲気を纏わせるためには、モンテッソーリ以外にもいくつかの外国語を添えるべきであるとされている。
おすすめの教育理論風の言葉
- シュタイナー教育
- イエナプラン
- レッジョ・エミリア理論
- シュバインシュタイガー・ゴール
- ジャイロ・ツェッペリ・スタンド
- イルミナティの陰謀
- ケネス・アーノルドの目撃
これらは、実際に教育現場でも使われる言葉であるものと、自信を持って唱えることで一部信者には劇的に突き刺さる言葉です。

諸刃の剣なので、要所での使用と、使い過ぎには注意が必要です。
態度は実体をも超越する
モンテッソーリについて語る場合には、知識よりもメンタルが重要だと考えられています。人は、自信のないことを話す場合、自然と態度に現れるもの。一瞬でも自信なさそうにしたり、言い淀んだり、自分に疑問を持ったりすることで聴衆の信頼を勝ち取ることはできません。
実践の態度を習得するための方法
まず、1600年代のフランスを想像しましょう。自分がモンテッソーリとなって、フランスの大地を踏みしめ、モンテッソーリの領地で農奴が税として納めたワインを啜ります。そして、民衆に向かって叫ぶのです、「これが、俺の、教育だ」と。

ここまで強くモンテッソーリを信仰することで、初めて不倶戴天の敵を打ち破り、魍魎抜港する似非教育者を打ちのめし、自らの教育理念を声高に語ることができるのです。
無知の知
無知であることを悟ることから、本当の知識を語ることができるとは、ソクラテスの言葉でしょうか。
自分の無知を悟ることは大事ですが、実際問題、無知同士が語らっているだけなので「無知の知」はあまり関係はありません。
むしろ、この段階まで会話が成り立っているなら相手は相当の無知です。何を語っても信じてくれる間柄というのは、ある意味では何よりも尊いものなので、竹馬の友として大切にしましょう。
モンテッソーリを活用すべき場面
以下のシチュエーションでのモンテッソーリが最適です。
- 入稿締め切りの迫った記事を完成させる必要がある
- 結婚式の挨拶を当日依頼される
- 「フランス人の親戚がいる」と友達に嘘をついてしまった
- 虚構と空想と仮想現実の世界に迷い込む
- 街中で「モンテッソーリさん」と呼び止められる
記事が間に合わない
今回は依頼された記事ではありませんが、企業から「教育関連のアフィリエイト商材を紹介してほしい、でも執筆料は払わない」という謎の案件が依頼された場合、まずは記事執筆は後回しにします。

しかし、後回しにしすぎると課題が積み重なって9月1日の小学生状態になるので、締め切り直前、永遠の8月31日に記事を書き始めるなら、モンテッソーリの活用が有効です。

アフィリエイト商材自体が実体のない商品みたいなものだし、執筆料も発生しないのだから、ある意味ではモンテッソーリ記事が最適とも言えます。
逆に、企業広告としての記事を依頼する場合には、担当者はモンテッソーリ記事の可能性を疑い、チェックするよう心がけましょう。
結婚式の挨拶で活用する
まず、当日依頼というのがアリエナイので、因果応報としてのモンテッソーリが必要になります。

結婚式の参列者の顔ぶれを見ながら、果たして「モンテッソーリ」が通用するのかを検討していきますが、私に結婚式の挨拶を依頼する時点で式自体が破綻している可能性を期待して、満を辞してのモンテッソーリの入場です。
もし、あなたが友人の結婚式に参列し、偶然、結婚式の挨拶で「あれ、どこかで聞いたことがあるような」と思った場合は、多くは語らずに聖母マリアのような微笑みを浮かべておきましょう。
フランス人について語る
小学校の時、何かと自慢話大会になりがちですが、つい、嘘をついてしまうことってありますよね。
今考えても、どうしてあんな嘘をついてしまったのかはわかりませんが、とにかく、フランス人の親戚がいるのです。新潟から出たこともないのに、夏休みには毎年フランスのブルゴーニュ地方で親戚のジョアンナとぶどう踏み祭りでタップダンスを披露するのです。

モンテッソーリを持ち出すことも大事ですが、嘘をついたら素直に謝る方が傷口が広がらないこともあります。自分の子供の様子がおかしい場合は、人生の教訓を教えてあげるのも大事だ思います。
モンテッソーリと間違われる
「あれ、モンテッソーリさんですか?」
「いいえ、違います。私は、シャルル・ド・モンテスキューです」
モンテッソーリと間違えられたら、素直にモンテスキューであることを白状しましょう。アイムソーリー。
本物のモンテッソーリ教育を解説する
私はプロのブロガーなので、歪曲した事実は放置せずに自分で回収し復元するマナーぐらいは持ち合わせています。
答え合わせをしてみる
イタリアのローマで医師として精神病院で働いていたモンテッソーリは知的障害児へ感覚教育法を施し知的水準を上げるという効果を見せ、1907年に設立した貧困層の健常児を対象とした保育施設「子どもの家」において、その独特な教育法を完成させた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%AA%E6%95%99%E8%82%B2

そもそも、フランスじゃないという。

モンテスキューに引っ張られすぎたね
ただ、奇妙な一致としては「教育は、割と自由主義」なところを言い当てています。私の教育センスのなせる技です。
モンテッソーリは自主性の高い教育法
子どもたちは生まれながらにして知ることを強く求めているもので、思慮深く用意された支援的な学習環境の中であれば、自発的に学び始める力を持っていると捉える。
ものすごくざっくり言えば、子供の発達段階に合わせて、子供の学ぶ環境を整え、自主的な活動を支えるのがモンテッソーリの軸です。具体的には、以下のような感じです。
モンテッソーリ教育の方法
- 異年齢のグループ・クラスで行う
- モンテッソーリ教育法を理解した教員を配置する
- モンテッソーリの教具を使用する
- 子供は基本的に自由に活動する
- 感覚・言語・文化・算数・日常訓練の分野の教育(3〜6歳の場合)
モンテッソーリ教育のメリット・デメリット
だらだら本物のモンテッソーリ教育の記事を読んでいたら、まとめざるを得なくなってきたので要点だけ押さえます。
期待される効果
モンテッソーリ教育の目的は、「自立していて、有能で、責任感と他人への思いやりがあり、生涯学び続ける姿勢を持った人間を育てる」ことです。

素敵な目標です。私もそうありたいと願いながら、気づけば想像だけでモンテッソーリ記事を終えようとする無責任な大人になっていました。
私自身は、異年齢クラスで、基本的には自由な形で活動を行うという環境は「自身が活動に集中する」だけではなく、下の子の面倒も見るような成長を見せてくれるのではないかと期待するところはあります。
デメリットがないわけではない
ただ、デメリットとして「協調性のなさ」や「モンテッソーリという活動制限」を受けて思ったほどの効果は得られなかったと評するママブロガーもいます。
教師によって指導内容の質が大きく異なるリスクもある教育方法だとも言えます。

結局のところ、子供の自主性に任せるというのは相応のリスクが潜んでいるし、介入し過ぎればそれはもうモンテッソーリではなくなるし。子供の特性次第、という当たり前の結論に至りそうですね。
デメリットとして挙げられていること
- 自主活動に集中して、協調性に欠ける
- 時間割の意識がなくなる
- モンテッソーリ教育を行う環境が整えられていない
- 教員次第で教育内容に大きな差が出る
- 結局、日本の学校教育に馴染ませられる
モンテッソーリ教育は、保育園・幼稚園などの年齢、いわゆる幼児教育に取り入れるケースは多く見受けられるので、自分の自治体でも受けられる施設は探せばあるくらい存在しています。
ですが、結局、義務教育の小学校カリキュラムとしてはそぐわないところがあるので、「ただただギャップが生まれるだけ」で、子供は困惑するというケースが多いようです。
有名な教育理論・教育法と比較する
- モンテッソーリ教育
- シュタイナー教育
- レッジョ・エミリア教育
- ドルトンプラン教育
- フレネ教育
- イエナプラン教育
- フィンランドの教育
シュタイナー教育
シュタイナー教育では、教育という営みは、子供が「自由な自己決定」を行うことができる「人間」となるための「出産補助」であるという意味で、「一つの芸術」であると考えられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC%E6%95%99%E8%82%B2
私なりの解釈ですが、「国」が教育すると都合の良い人材育成となりがちだから、もっと「自分」を高められるような「自立した人間」に成長するための自由な教育、という感じです。
キーワードとしては「魂と身体」「7年期」「4つの気質」など、科学的なエビデンスよりは思想の強そうなパワーワードが並びます。
レッジョ・エミリア教育
レッジョ・エミリアはイタリアの都市の名前ですが、教育の中にアートを取り入れて活動する。活動内容は子供たちの自主性を重んじ、大人も対等なメンバーとなって話し合います。芸術活動でも個々の自主性に合わせ、活動でできた作品などは掲示して振り返れるようにします。
ドルトンプラン
「自由」と「共同」の原理において、こどもは自分で学習内容を決めて取り組む。クラスとしてはミーティングを定期的(週一回)行い、話題を共有した上で議論することで協調性を身につけていく。
フレネ
学校教育に子供たちの手による校内新聞や学校間での通信などの印刷物を取り込み、自発的なグループ活動を通して子供たちの人間性を養うことを目的とした「積極方式」と呼ばれるスタイルを生み出し、教育界に多大な改革をもたらした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%8D
イエナプラン
特徴としては以下の通り
- 意年齢学級を構成(概ね3学年)
- 会話・遊び・仕事(学習)・催しという4つの基本活動を循環的に行う
- 学校は共同体で、メンバーには子供・教員・保護者
- 科目を結ぶ「総合学習」を尊ぶ
フィンランド教育
国際学力では安定して高評価を得ているフィンランドの教育方針。
こちらも、自主性が重んじられ、生徒が自身の目標にチャレンジできるようサポートします。
結局、どんな教育方法がいいのか
結論は、当然、「こどもによって違う」ということになります。

しかも、子供の特性だけではなく、与えられる環境に大きく依存するし、親の価値観や指導力、教員の質など、教育はあまりにも多くの不確定要素によって成り立っています。
結果として、「最も無難な方法」であり「最大公約数」の生徒が対象となる教育方法が実践されるわけですが、誰にとっても最善ではないというのが学校教育の行き着くところです。
これは、ある意味では仕方がないことですし、同時に「学校任せにはできない」という教育の根本の問題でもあります。学校教育と、家庭・地域での教育が合わさることで、こどもにとって最適な教育となっていくと考えられます。
テーマが「自主性」にあるのは間違いない
ただ、ざっと教育方法を抜き出しただけで「自主性」が注目を浴びていることはわかります。(検索上位の記事しか見ていないので、ある意味では広告に偏った意見でもありますが)
自主性を重んじるのと放任は違う
自主性は「放任」ではありません。個々にとって必要な教育・適正な指導を、適宜行う必要があり、教員数と教員のレベルが同時に要求される教育法です。モンテッソーリなど耳障りがいいと、幼稚園・保育園、幼児塾などで取り入れられがちですが、詰まるところ、何を目標に、誰が教えるのかでガラッと内容が変わるものです。
先に紹介したSTEM教育でも、実際のところアクティブラーニングとして「自分で学んでいく」姿勢が求められています。昨今、コロナの影響で在宅での学習の必要性が増してきましたが、実際のところ「ヤベェ、うちの子全然自学できない」とびびった保護者の方も多いと思います。
自学自習って、大事
自学自習ができるかどうかで、義務教育以降の活動に大きな差が出てくると考えられます。自分で方針が定められないと、レールに載せられたないと何もできないし、行き着く先が泥舟でも乗船するしか選択がない未来になってしまう、かもしれません。

自主性を重んじる、という言葉は簡単ですが、その真偽をとえるほど、実は大人もできていないのが「自立・自律」だったり。

大人になっても、必要な時に必要な勉強ができる人って、果たしてどれくらいいるんだろうね?
ほとんどふざけて書いた記事でしたが、最後は真面目にフィニッシュするあたり、自分はつまらない大人になっちまったもんだと反省する次第です。
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