親が子供に対して怒ることは、「危険なこと」の他に、「悪いこと」があると「怒り方まとめ」ページに書きました。
ただ、この「悪いこと」というのが実に曖昧で、基準がそれぞれの「道徳」や「倫理観」によるところが大きく、そもそも正解のないものと考えられます。
「正しい」という価値観について
私は特に何も考えずに書き始めて、最後にまとめを最初の見出しに作ります。色々書いてみたのですが、結局のところ「正しい」というのは実に曖昧で朧げで気まぐれで、時に残酷です。

だから、結論としては、親も間違いではないし、こどもだって同じくらいには正しい。子供の正しさを認め、親の間違いを受け入れることから、解決策を考えるしかないのだと思います。
「正しさ」は「教典」
つまり、躾においても「正しさ」を決めることは難しいということ。
「正しさ」は宗教の教典のようなもので、信者にとっては疑いなき指標です。教典を疑うことは存在そのものが揺らいでしまう問題になります。ただ、外部の人間からすれば教典の教えは人生の否定に感じられる苦痛なものです。
多くの人には生きやすく、一部の人には生きづらくなる「教え」
まだ純粋無垢な子供にとって、この教典は生きる標にもなりますが、同時に子供の生き方を型に嵌める足枷になるかもしれません。型に嵌ることは、皆が同じように生きる世界であればお互いの価値観や行動が統一されているし、型からはみ出した人を悪く言えばいいのです。ただ、もう世界は全ての人を同じ型に嵌められるほど単純ではありません。
楽な方で言えば「ただ信じること」だとは思います。多くの場合は、自分の正しさだけを信じている方が何も考えずに済みますし、ワガママに生きやすくなります。自分の正しさの尺度から他の人が逸脱すれば、悪い人だと烙印を押して距離を取ればいいのです。
みんなが同じことを守っているはずなのに、バラバラになる行動
社会で言えば、「法律」や「ルール」、「マナー」、「常識」あたりが、この「教典」の原文にあたるものになります。とはいえ、全てのシチュエーションに正しい答えが書いてある「解答集」のようなものが実際にあるわけではなく、そもそも、法律やルールなんかを全て把握しているわけでもなく、状況に合わせて、自分の「教典」で解釈する必要があります。

原文の段階では、解釈は発生しないわけなんですけど、結局、自分が行動する際には、「きっとこれが正しい」と自分なりの答えを出して行動するわけですね。
「正しいこと」はみんな違う
しかし、こうなってくると、「教典」に書いてあることはみんなそれぞれ違うということに気がつきます。信仰の大元はだいたい似たようなものだったはずなのに、行動はみんなそれぞれ全く違う。
正しくないと自覚して行動していることもあれば、正しいと信じて自己中心的な行動をとる場合もある。教えを守れずに異端となる人もいるけど、教典を掲げて他宗派を罰するものすらいる。

教典が一つではなく、全ての人の心の中にあることを知ることから始めましょう。
何だか、本当に宗教の話になってしまいそうなので例え話はやめますが、「正しさ」はひとつではなく、各々の物差しで解釈されるものです。
特に厄介なのが、親と子の関係の場合です。親の振りかざす正しさは、子供にとっては「絶対的」と言えるほどに巨大なもので、多くの子供は大人になっても正しさに縛られることになります。
「怒る」の倫理
元々は、「子供を怒る」というテーマで書き始めた記事です。脱線を繰り返して、一応、全てにテーマを与えて再編しているのですが、自分の考えもまだまとまっていないくらいです。日々鍛錬であります。
怒るをテーマにした記事は他にもあります。
「正しい」子育てとは
子育ての正解といえば、こどもが「幸せになること」だと思います。親は、こどもが幸せになれば、その幸福をおかずにご飯が食べられます。
しかし、今の日本は「幸福度」の低い国として有名です。比較的安全で、ものには恵まれ、争いもないのに、心は貧しい。「幸せになること」は思った以上にハードルの高いものであるようです。
子育てに関する記事はこちらにまとめています。
親の「正しさ」をより正しくするために
記事のまとめはこれですね。
- 世代によって「社会の価値観」も変わる
- 夫婦の間でも「価値観」は異なる
- 大人は正しさを説くわりに、正しく行動しない
- 大人の行動で、子供の中の価値観が揺らぐ
- 「価値観」が揺らぐとき、子供は自分にとって都合のいい解釈をする
「正しい」子供の価値観を育む
- 正しさの多様性を知ることから始める
- まずは夫婦の価値観を共有して認めることから始める
- こどもを怒ることは「正しさへ導くため」だという幻想を捨てる
- 親・大人が正しいという思い込みはさせない
- 正しさは一人の心の中には根付かず、人と人との間に育つ
- 正しさは誰と一緒にいるかで形を変える
- 利己的な行動はすぐに広まってお互いが損をする
- 正しい行動はゆっくりと染み込んでお互いが少し得をするが時間はかかる
- 行動は「正しさ」の表現形で、他人は行動でしか評価できない
- 言葉は「正しさ」を伝えようとするが、多くの場合は嘘も含む
なんか、本当に説法しているみたいな気持ちになってきますね。
こどもに正しさを教えるのはやはり難しいことです。ただ、「正しい」を教えないと行動の指針もできないし、かといって、何が正しいのかは親にもわからん。
考えれば考えるほど沼にハマるので、本当に「信仰」に近いものだと実感する次第です。正しさを伝えるには、正しい行動を繰り返してみせるしかないし、そうは言っても大体の場合、親は手っ取り早く言葉だけで伝えようとします。
「正しい」ことはその都度変わります。そして、親と子供の関係性の場合は、圧倒的に親が有利な状態で展開します。この状況で、親が自分勝手に正しさを解釈すれば、子供も同じように、正しさを自分勝手に改変できるようになります。
まとめなのに答えは出ませんが、とにかく書いてしまった文章は晒しておきます。
親の価値観を見直す
どうにも最近、子供を怒りすぎてしまう。なぜ、子供を怒ってしまうのかといえば、悪いことをしたら怒ると決めているからだ。
何をしたら「悪い」のかといえば、これは特に決まっていない。父親の怒ることと母親の怒ることは、毎回、ちょっとずつ違う。なんだったら、同じことでも怒られる時と、怒られない時がある。
親は、というか私は、一応は自分が正しいと思っていることを理由に、子供を怒ります。でも、やっぱり、何か違うなぁ、というモヤモヤがあります。自分が怒ったことを、他の親たちは怒らない、あるいは他の人が怒っている時は、「あんなことで怒らなくてもいいのになぁ」と思ってしまう。
というわけで、ここからは、私がモヤモヤしている部分を少しずつ解釈していきたいと思います。楽しくはないです。
親が子供を怒ることって、正しいことなの?
子供より圧倒的に「社会経験」が多いことは間違い無いのですが、長く生きたことは決して「正しさ」を証明することにはなりません。むしろ、正しさよりも「間違い」を積み重ねてきた人生である方が可能性としては高いくらいです。親は、自分が失敗したことなどを「子供に経験させないように」、失敗しないような道を選びがちですが、その道の選択すらそもそも誤りである可能性もあります。
考えることが面倒な方に、先に結論を言えば、親が「正しい」と思っていることは大体「間違い」であると思った方がいいです。親がやるべきことは、「間違いなんじゃないか」と考えながら、子供にとっての最善策を模索し続けることだけです。
つまり、「正しい」はある種の「思考停止」に近い状態であると考えるべきで、「間違い」と認識した方が、正解を探そうと努力することができる、ということです。
親はまず、自分が「正しい」存在なのかを考えるべき
おそらく、すでにこの文章を読んでいる方は皆無だと思います。まず、文章を読むのも面倒な方はすでに脱落しており、文章を読めても自分の正しさを確信している方はそっとページを閉じているはず。「もしかしたら、私は間違っているのかも」という考え方が持てる方は、そもそも優秀な方なので、このページを読む必要すらないのです。
自分の考えをまとめるだけに書いているので、気にせず読み終えてもらって構わないのですが、何かの気まぐれで読み続ける方もいらっしゃるかもしれないので、一応、ブログ記事の体裁を保ちながら執筆を続けます。
自分の「正しさ」を証明してみる
まず、「正しさ」を証明する必要があります。
正しさ自体は「価値観」の問題で、そもそも人に押し付けるようなものでもないのですが、例えば社会全体が良くなることが正しさであるとするなら、「良くなる」指標を決めて、点数が最も高くなるような方法・考え方なんかは「正しい」と言えるかもしれません。
似たような言葉で「正解」もあります。例えば、子供の人生を考えたときに、「正解」の道をなるべく選んであげたい。親のエゴではありますが、親は育児をする際には常に頭を悩ませるはずです。
正しさの指標は複雑
例えば「裕福さ」を正解・ゴールとして設定するなら、一番稼げる方法を子供に選択させてその道を進ませれば、正解と言える人生と言えるかもしれません。
ただ、お察しの通り、「裕福」であることは「幸せ」であるとは限らず、どう考えても日本より貧しい国に住む人の幸福度の方が高く、どう考えても自分より裕福で何不自由なく暮らせる立場にある人が自殺をします。
自殺をする選択は、精神科に勤めていた私からすると、自殺という結果よりもその過程でどれほどその方が苦しんだかを想像するだけでつらくなります。少なくとも、子供には「自殺」を考えることのない人生を歩ませたい。
自殺が一番近い島
最近読んだ本で、「逃げ場がなくなることが自殺の原因」という言葉がありました。
日本はそれなりに裕福ですが、正解があまりにもはっきりと設定されているがために、幼いうちから逃げ場がなくなり、自殺という道を歩まざるを得ないケースが多すぎるような気がします。
コロナで若い女性の自殺数が急増したけど、生き方の選択肢があまりにも狭いのも問題だけど、そもそもたくさんあるはずの選択肢の「価値=正しさ」を認められずに、行き詰まり感を覚えやすいという社会構造はあると思います。
歪んでいる日本を作り出した大人たちが正しさを伝えるという歪み
話がそれましたが、実際のところ、「正解」も「正しさ」も、親が決められる問題ではないし、親が考える「正しさ」が少なくとも現在の日本の歪みを生み出している原因であることは考えてもらいたい。
結局、子供が「幸せ」と感じられるチャンスをどれだけ用意してあげられるかが大事なんじゃないかと私は考えています。その中で、親の「正しさ」は親のエゴでしかないし、場合によっては子供の「幸せ」を阻害する尺度にすらなりかねないと思います。
社会の正しさと幸福かどうか、という話
長くなったので別記事に移動しました。テーマは「社会が正しさを強要するのに、その社会が全く幸福じゃない」という話です。社会に対しての恨みつらみが止まらない方の参考にはなるかもしれません。
幸福じゃない社会の価値観を、子供に引き継ぐ?
- 日本は裕福で安全な国でありながら「幸福度」が異様に低い
- 幸福度を下げているのは「逃げ場」のなさが原因か
- 価値観を固めすぎた世代から、価値観を認めあう世界へ
- 子供の生きやすさを考えて、我々が教えるべきこと
この辺りを記事に落とし込んだりしています。興味があればぜひぜひ。

価値観をアップデートする方法
さて、散々平成時代の子育てが「現在では通用しないものだ」と説明してきたので、少しくらい自分の価値観を疑い始めてくれると嬉しいのですが、実際問題、自分の価値観を変えるというのは難しい話です。でも、自分の親の価値観がずれているってことは、なんとなく経験的にわかりそうな気もします。

まず、自分の価値観が、子供にとっては時代遅れであるということも認知しておくべきです。
おそらく、私がこれほど熱く語っていることも、数年後の子育てではもう時代遅れの価値観です。なんだったら、逆行して「平成子育て」が見直されているかもしれません。
学歴・終身雇用時代の価値観が通用しないことは、つまり今(これから)のジョブ型・副業型時代の価値観も子供たちの人生においては古い考え方になると思われます。大事なことは、親の価値観も時代に合わせてアップデートしていく必要があり、加えて「親は時代に遅れて理解するもの」だと考えておくことが妥当です。
「自惚れ」を自覚する
まずは、自分の価値観を疑うことから始めていきます。
都合のいい解釈が発生する「認知バイアス」
認知バイアスの記事は移動しました。心理学など興味がある方は参考にしてみてください。
人間の行動はある程度予測しやすいので、心理学を理解すると子供を意図的に誘導することはそれほど難しいことではありません。
ただ、あまり誘導しすぎると子供が親の洗脳を受けてしまうので、適度に子供の反発も受け入れていくのは大事だと思います。

親が正しいと思うものが「正しい」かどうかはわからない
まず、散々話題にしているので、「正しさ」の話をします。ここまで読めた方は相当暇か育児に悩みすぎてベクトルがずれ始めていると思うので少し心配でもあるのですが、読んでいただけているのなら、ありがとうございます。
さて、まず、親の価値観で「正しい」ものは、大体、正しくはありません。
- いい学校に入ること
- いい会社に就職すること
- 立派な人間であること
例えば、学歴社会で過ごしてきた親が、自身の経験から「いい学校に入って、いい会社に就職することこそ全て」という価値観から、「ちゃんと勉強しないと、ろくな大人にならない」と子供に説き伏せるシーンは、皆さんも経験があると思います。
なんで、お父さんはやらないの?
まず、この理論を通すには、「親がその通りの人生を送って、幸せなのか」という命題を自分で証明する必要があります。子供からすると、「じゃあ、なんでお父さんは、いい大学に入って、いい会社に就職していないの?」となります。
たとえ、それなりの大学に入っていたとしても、「なんで、東京大学じゃないのか?」「なんで、エリートコースじゃないの?」など、上を見たらキリがない話なわけで。自分で言ったことに自分で沼にハマります。
親は反面教師という刷り込み
こうなると「お父さん・お母さんのようにならないために、勉強するの」という理論になってしまうのですが、結局、それはお父さん・お母さんが幸せではないという証明になってしまいます。これは、子供にとっては二重につらい。

私は、中学校の時にこの理論に到達しましたが、頭のいい子なら小学生でもわかると思います。
親は「自分ではいいことを言って、実践しない」見本
この「自分の人生を蔑ろにして、子供にはちゃんとした道を歩ませようとする」言動は、親なら誰でも言いがちです。スポーツで成功しなかったから子供には早めに頑張ってもらいたい、英語ができなくて損したから早い段階で習わせたい。シーンは違えど、ついつい言ってしまうことはあると思います。
まず、「勉強しろ」でも「宿題しろ」でもそうですが、この命題にぶち当たると分かっているなら、親も家で努力する姿を子供に見せるべきです。努力する姿は人に見せないほうがかっこいい、という価値観はあるかもしれませんが、こと子供に勉強の大切さを伝えるなら、子供と一緒に勉強するべきです。
「忙しいから」という苦しい言い訳
親が勉強しない理由は、シンプルに忙しいからです。
しかし、この「忙しさ」は実に曲者で、言い換えると「時間がない」になるわけですが、根本的に計画性の問題です。時間の組み立て、優先順位の立て方が悪いから忙しいのです。
これを言うと多くの人が反論するのですが、反論者が自分のスケジュールを開示して「私はこんなに忙しい!」と証明するケースは稀です。なんだったら、反論者は「反論すべきネタを探し回っている」上に「反論を考えて投稿までしている」と言う時点で、割と暇です。暇なことを証明してから「私は忙しい!ドヤ」としているわけです。

なんだったら、子供の方が拘束時間は多いくらいだよね。習い事なんかしてたら、宿題と課題で家での「自由時間」なんて何もないくらいだし、宿題や課題をパスしたくなるのは当然。
実際、プランニングを始めると驚くほど自分に時間が溢れていることに気が付かされます。と言うよりも、いかに自分の固定観念でルーティン化された無駄な作業が多く存在し、しかも切り捨てられないでいるかがまざまざと見せつけられます。

ここで、プランニングの極意と言って、情報商材を売りつければいいのですが、残念なことに「私は忙しい」のでプランニングについては各々調べてみるといいと思います。暇な時に、「看護師しながら副業で稼いだ方法」なんかを記事にしますが。
親がいう「やらなければいけないこと」は、大体見当違い
この辺り、「正しさ」の話をしていることもあって一応指摘しておくと、「やらなければいけないこと」ことが本当にやらなくちゃいけないかは見直しが必要です。本当に残業しなければいけないのか、家事は自分でやらなければいけないのか、毎日献立を考えて食事を作らないといけないのか。
家事の見直しは流石に本論から逸れるので別の機会にしますが、とにかく、一般労働者の「時間がない」は何かをしないための言い訳です。理由があれば人は1時間くらい早く起きますし、仕事は早く切り上げますし、テレビを見ないで作業できます。
「必要がないから」という方もいるかもしれませんが、勉強が必要ないシーンは社会において存在しません。必要がないという方は、おそらく勉強を「資格・受験のための作業」だと考えていると思いますが、そもそも、育児に思い悩んでこのサイト開いているくらいなら、やっぱりそれも勉強です。これは正しい教科書ではありませんが、あなたがこのページを読んで考えたこと、それこそが学びであり、知識です。

自分の「価値観」を疑う方法
先に、自身の価値観を疑う方法をリストアップしておきます。
価値観の押し付け合いが始まるプロセス
- 価値観は自分の中にしか存在せず、「共有」されている物ではない
- 一般的に、みんなが同じ価値観を持っているという誤認を人間はしやすい
- 自分が「普通の集団」に入っているという思い込みがある
- 普通の集団に属する自分の価値観は正しい
- 「自分の価値観が正しい」と、みんなが思っている
- 自分と意見が違う人は「違う集団」だとして爪弾きにする
- 結果的に、みんなが自分の価値観を押し付けあっている
価値観の認知を変えるポイント
- 価値観は影響を受けやすく、場面によって変化することを知る
- 自分や相手を評価するとき、「集団」や「点」で評価しない
- 価値観は一時的・局所的な損得で考えず、影響を与える範囲と時間を意識する
- 自分にとって都合のいい理論をかざす時、相手に不利益を与える可能性を考慮する
また、ぼやっとしたことを書いてしまいました。

人間は「早合点」したがる生き物で、なるべく頭で考えずに行動したい傾向がある。だけど、大体の場合、それは失敗する、と考えておけばいいと思います。
価値観を押し付ける弊害を知る
勉強しろ、いい大学に入れと言いながら、子供を適応障害・うつ病にしてしまう親は結構います。
先程の忙しさにも繋がりますが、子供の勉強習慣をつけることができないまま受験期を迎え、仕方がなしに塾に通わせて、それでも行ける学校は限られていて子供は特に入りたくもない中途半端な学校に入って、さらにそれを何回か繰り返して「なんとか入れた大学」から就職できる場所を探してミスマッチで退職したりします。
子供の勉強を見れなかった代償は、思った以上に大きい上に、自分の忙しいと言う負担をさらに大きくしているわけですが、忙しいと言っている最中はなかなか気が付かないものです。
自分に置き換えて考えてみる
勉強しない言い訳は止まりませんが、親である自分が「勉強しない」ためにこれだけの理由を考えるのに、一方で子供にはその寛容さを適用してあげないと言うのも変な話です。
親ができないことを、まずは認める
自分で勉強の必要性が十分に説明できないのは、やはり自分が勉強の有効性を信じていないからです。同様に、立派な人間になるようにいくら道徳を言い聞かせても、道徳を解く親が人のため世のために動いていなければ、やはり信用性に足りないペテン師に他なりません。
親だから「聖人君子」のように、見本になるような行動だけをしろ、と言うことではありません。まずは、自分にはできないことがある、知らないことが多いと言うことを認めることから始めます。そして、「できなかったらどうするのか」「知らなかったらどうするのか」を一緒に実践していけばいいのです。
自分ができないなら、どうやったらできるかを考える
結局のところ、押し付けがましいことを言わずに、とはいえできればチャレンジしてもらいたいことがあれば、まずは自分がどんなことが嫌でチャレンジできなくて、どうしたらチャレンジできるのかを考えてみます。
勉強の例で言えば、やはり親も勉強をすることに他ならないのですが、例えば道徳・倫理のことを考えれば、人のためになるようなことを、親がどうやって示せばいいのかと言う話になります。
「良いこと」「悪いこと」を教える実例
少し本題から逸れた話がここにあったのですが、長くなりすぎたのでカットしました。
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